映画【ジョーカー フォリ・ア・ドゥ】〈なぜ[酷評]なの?〉 もう一度観たくなる解説&感想

ジョーカー フォリ・ア・ドゥ : ポスター画像 – 映画.com

当ブログでは皆様の映画選びの一助になる情報と感想をお届けしております。
この記事を読めば、あなたもきっとこの映画を何度も観たくなります。
是非最後までお付き合いください。

では、行きましょう!

この記事でわかること

●映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の概要
●映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の見どころ
●映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の解説(どうしてこういう映画になったのか)
●映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の楽しみ方
●映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の推しポイント!
●映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の惜しい点

感想については、あくまで個人的な見解、考察ですのでご容赦ください。
一部ネタバレを含む表現がありますので、ご注意ください。

結論!

<おススメ度>
 ★★★☆ 3.5/5

<ファーストインプレッション>
前作に共感はできませんでした。前作に対する熱量はなく、期待は低かったです。
そんな筆者には、思っていたより面白かったです。時々ウトウトしましたが、むしろ評判が悪いといわれているミュージカルシーンで目が覚めました。

<ポジティブ感想>
法廷もの、刑務所もの、ミュージカルの組み合わせで構成されています。
● 酷評というほど酷い出来ではありません。筆者は結構楽しみました。期待するものが何かで、評価が大きく変わる作品です。
前作『ジョーカー』と本作を1本の映画として観ると、作り手の意図がわかりやすいです。続編というより、後編といえる作品です。前作が「成功編」、本作が「凋落編」です。
● 昔からあるとても古典的な物語です。凋落する男の話として味わい深いです。
観客にカタルシスを与えないような作りになっている変わった映画です。こんな映画は滅多にありませんので、とても興味深いです。
前作を否定する映画なのですから、ちゃぶ台返しの無茶苦茶感を面白がるのが、本作のいい楽しみ方だと思います。
● ミュージカル映画ではありませんが、ミュージカル要素はかなりありますスタンダードナンバーが中心で、派手さはありませんが、それなりに楽しめます。
● とても力を入れて、本気で作っているのがわかります。凝った画作りもキャストの演技も素晴らしかったです。
● 作り手の勇気ある作品であり、誠実な映画です。暴力を否定したという意味でも、価値がある作品です。
● 作り手からファンへの回答です。このような映画を生んだのはファンの反応が原因です。前作のファンが本作を酷評するのは、とんだお門違いだという気がします。監督からのメッセージをしっかり受け取りましょう。

<ネガティブ感想>
新しい物語ではありません。古典的なストーリーを綺麗な画作りで撮った作品です。
● 本作の鑑賞は、前作(=前編)を観ていることが前提です。本作を観る前に前作の『ジョーカー』を観ておきましょう。(要予習復習)
● ジョーカーの物語ではありません。本作はアーサーの物語ですので、素直に『アーサー』というタイトルが相応しいと感じました。
● 「後編」なので、前作と表現したいことは同じです。同じであれば、わざわざ1本の映画として、作る必要は無かったようにも感じます。前作・本作を2本に分けないで、1本にまとめれば良かったのではないかと思います。
● 敢えてカタルシスを与えない作りにしてあるのは理解できましたが、暴力的なカタルシスを廃するために、映画的なカタルシスまで無くなっているのは残念です。
● 下手に歌わせるのだったら、ミュージカル仕立ての作品にわざわざガガ様を呼んだ意味はありません。参加させた以上は、それ相応のパフォーマンスを観客に披露してもらうべきです。
フィクションの否定にも繋がるような作品になったのは、疑問が残ります。

ゴマ

『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』はどんな映画なの?

こま

「バットマン」に出てくるヴィランの誕生を描いたとされる映画『ジョーカー』の続編。アメコミヒーローのスピンオフだけど、本作はアクション映画ではなくサスペンススリラーだよ

目次

映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の概要

DCコミックス「バットマン」 シリーズに登場するスーパーヴィラン・ジョーカーの誕生を描いたサスペンスエンターテインメント『ジョーカー』(2019年)の続編。「バットマン」のスピンオフです。

前作に続いてトッド・フィリップスが監督を務め、脚本のスコット・シルバー、撮影のローレンス・シャー、音楽のヒドゥル・グドナドッティルらのメインスタッフも続投しています。

ホアキン・フェニックスが引き続きジョーカーを演じ、ハーレイ・クイン役でレディー・ガガが出演。

ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品作品です。

前作はベネチア国際映画祭で金獅子賞、アカデミー賞で主演男優賞を受賞するなど高い評価を獲得し、社会現象を巻き起こしました。日本での観客動員は4週連続No.1 の大ヒットとなり、世界興行収入は1,500 億円に上り、当時のR指定映画史上No.1 の記録を樹立しました。(現在は『デッドプール&ウルヴァリン』がNo.1です)

上映時間は138分、と長めです。

レイティングはPG12指定です。

ゴマ

『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の評判はどうなの?

こま

かなりの低評価になっているね

映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の評価

ロッテントマト
 トマトメーター 32%
 ポップコーンメーター 32%

Filmarks 3.6p
映画.com 3.3p

観客の出口調査「Cinemascore」では、ハリウッドのコミック映画として初めてD評価となっています。

フランシス・フォード・コッポラは自身のインスタで「彼(トッド監督)は常に観客の一歩先を行き、予想外のことをしてきました。『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』おめでとう!」と投稿しています。

賛否が分かれているものの、観客の期待は大きく下回っているようです。

ゴマ

『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』はヒットしているの?

こま

かなり苦戦しているけど、日本ではそこそこ入っているみたいだね

映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の興行収入

興行収入では前作は全世界興収1500億円、日本でも50億円超と大ヒットしました。

制作費は前作が約5500万ドル、本作はその3倍以上の約1億9000万~2億ドルがかけられています。
本作の興行収入は、北米では公開1週目は3,767万8,467ドル(約57億円)と苦戦。2週目は81.4%ダウンとなる700万2,654ドル(約11億円)となっています。

前作と比較すると、オープニングは前作の半分以下という結果です。ワーナーの屋台骨が揺らぐくらいの低評価と大赤字になっています。

日本では、全国368劇場、889スクリーンで公開され、初週4日間で約4億5000万円、28万人を記録。週末公開の洋画で初登場1位となりました。10月21日までに累計8億5700万円、45万5000人を突破しています。

日本においてはそこそこ入っているという感じです。

ゴマ

本作のざっくりあらすじです

あらすじ

理不尽な世の中の代弁者として、突如時代の寵児として祭り上げられたジョーカー。その2年後、アーサー・フレックはアーカム州立病院に収監されていた。
そんな彼の前に、同じ病院にいたリー・クインゼルという謎めいた女性が現れ、アーサーはたちまち恋に落ちる。法廷に出た彼は、悪のカリスマなのか、それともアーサーという愚かな男なのか。ジョーカーの狂気はリーへ、そして再びアーサーへと伝播していくのだが。

といった筋書きです。

フォリ・ア・ドゥの意味

本作のタイトルにある「フォリ・ア・ドゥ」(Folie à deux)は、フランス語で「2人狂い」という意味です。ひとりの妄想がもうひとりに感染し、複数人で妄想を共有するという感応精神障害の一つです。 

表面的には、ジョーカーの妄想と狂気がリーや群衆に伝播していくように捉えられます。
オフィシャルサイトにもそのように書かれていますが、本作における「フォリ・ア・ドゥ」の意味は宣伝文句とは異なると考えます。

本作における「フォリ・ア・ドゥ」はジョーカーからリーではなくて、リーからアーサーへの、そして「群衆」( = 観客)からアーサーへの妄想の伝播です。リーも群衆も、観客(ファン)のメタファーです。
前作を観た多くのファンは、本作でアーサーがジョーカーとして暴れるのを期待し、妄想しています。
収監されて気が抜けた状態だったアーサーに、その狂気(悪事を働いてほしいという期待)が伝播し、彼は再びジョーカーとして生きようとします。

しかしアーサーは、最終的に車を自ら降りてジョーカーファンから逃げ、「フォリ・ア・ドゥ」(妄想の共有)を否定することになるのです。

そして「フォリ・ア・ドゥ」の毒は、最後にアーサーを刺殺する男に移っていくのです。

ゴマ

『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』にはどんな特徴があるの?

こま

徹底して観客にカタルシスを与えないという珍しい映画になっているよ

映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の特徴

本作は、法廷もの・刑務所もの・ミュージカルの組み合わせになっています。

劇中の法廷で前作を否定していく話になっています。
前作を解体、答え合わせをし、前作で観客が熱狂した男は、ただの何でもない男だったということを証明し、ジョーカーファンの熱狂を冷ますことが目的です。そのために娯楽作品でありながら、観客に極力カタルシスを与えないように作られています。

リーはアーサーではなく、映画ジョーカーのファンです。つまりリーは観客(ファン)の代表というメタ構造になっています。
リーが知っているのはドラマの中のジョーカーであり、アーサーではありません。当然2人の目的は同じではありません。アーサーは愛を求めているだけですが、リーはアーサーに興味はありません
観客(ファン)の多くも、リーと同じように「ジョーカー」が暴れ回ることを期待し、アーサーのしょぼくれた姿に興味はありません。

しかし、本作はアーサーを描く映画なのです。観客(ファン)から批判を受けるのは当然なのです。

ゴマ

前作の『ジョーカー』はとても評価が高かったけれど、そんなに凄い物語だったの?

こま

映画表現としては凄かったけれど、物語は普通に感じたよ。でも多くの観客から勘違いされたようだね

前作と本作の関係

前作『ジョーカー』は高く評価され、大ヒットし、多くのファンを作りました。前作に感化され、実際に犯罪を犯す者も出ました。

コメディ映画を中心に作ってきたトッド監督が、馬鹿がやりにくくなった世の風潮に対して「しばらくコメディは撮らない」と言って、喜劇のアンチテーゼとして撮ったのが前作でした。そこで作りたかったのは、スーパーヴィランの誕生などではなく、コッポラタッチの悲喜劇です。

「コメディをバッシングするような昨今の世情に嫌気が差して、コッポラの『タクシードライバー』(1976年)や『キング・オブ・コメディ』 (1983年)のオマージュをやろうと思ったんだけど、そのままでは企画が通らないので、映画会社がOKを出しやすいジョーカーの名前を借りて作りました」というのが、前作の『ジョーカー』のトッド監督の制作理由だと推察します。
つまり最初からトッド監督が描きたかったのは「ジョーカー」ではありません。アーサーという男の物語をスコセッシ風に描くことでした。だからこういう映画になるのは当然です。ジョーカーでなくても成り立つ物語なのです。

アーサーはコミック版のジョーカーではありません。それは作中ではっきり示されていました。ブルース・ウェインが幼少であるだけで、それがわかります。
しかし、観客の多くは、アーサーの物語をジョーカーの誕生と勘違いしました。前作でのジョーカーは、悪のカリスマが誕生したのではなくて、ジョーカーという現象・キャラ・概念が生まれたという話です。アーサー自身は、どう見てもジョーカーの器ではありません。

トッド監督が撮ったのは、ただの一介の男がちょっとした境遇やトラウマによってスーパーヴィランの(ような)存在になり、偶像として祭り上げてしまう姿です。祭り上げられた男が、いずれ凋落するのは必然です。観客は闇落ちした男を目撃しただけなのです。救いようのない哀れな男の物語です。

その物語をリアルに描き、観客に今の世の中と地続きに感じさせました。現代社会への危機感とそのあり方に問題提起をしたかったのに、世の中には逆に受け取られてしまいました。映画は称賛され、模倣犯まで作ってしまったのです。ワーナーに「続編を作ってくれ」と言われた時に、監督にはこれしか答えはなかったという感じではなかったのでしょうか。

前作ではアーサーが不遇のように描かれますが、よく見るとそうではありません。
アーサーは古びてはいるけれど、エレベーター付きの広いアパートに母と住んでいます。貧乏だけれど、家には風呂も電話もビデオデッキもあります。食事に困っている様子もありませんし、入院も病院にも行けます。タバコを買う金もスタンダップコメディクラブに行くくらいのお金もあります。底辺の生活でも、地獄のような環境でもありません

最初に3人殺したのは職が無くなったあとで、出生の秘密がわかるのはその後。少し客観的になれれば、認知症が疑われる母親の言葉を受けてウェインの息子だと信じる方がどうかしているとわかるはずです。
病を抱えているのは気の毒ですが、もっと重く辛い病の人はたくさんいます。

マレー・フランクリンは、確かにアーサーを笑いものにしようとしたかもしれませんが、物事を上手く出来ない人(素人も玄人も)を茶化す番組は日本にも無数にあります。これをチャンスと捉えるか、小さなプライドが邪魔をするかで人の人生は大きく変わります。マレーの番組で茶化されたとしても、注目が集まることは間違いありません。そのチャンスを活かせれば、もし才能がなくても愛すべきピエロにはなれたかも知れません。実際テレビはそんな小さな人気者で溢れています。それぞれのバラエティ番組は、そんな小さなスターを作ろうと躍起になっています。アーサーには小さな機会を掴み取ろうとする貪欲さもありません。彼はそんなチャンスをみすみす捨てて、逆ギレ殺人を犯しただけの男なのです。

アーサーの環境を考えると、自業自得感が大きいことがわかります。前作のアーサーはただの小悪党に過ぎません。
看板を壊されたことを依頼主や社長に説明し謝罪しなかったのも、病院で銃を落としたのも自業自得です。不幸になっているのは自分自身の問題なのに、アーサーは他人が悪いと思い込みます。つまりそれも妄想なのです。

アーサーはコメディアンとしても才能がありません。無理な夢をみているのです。
才能がないのに勘違いして夢見がち。プライドだけは高い。不遇なのではなく自業自得なただの小物。それがアーサーです。

小物ほど虚像を作って自分を大きく見せたがります。マレーの番組でも、裁判所でもアーサーの態度は小物そのものです。アーサーは晒し者のショーを、ジョーカーになることによって、自分のショーにしようとします。「ジョーカー」はアーサーが見栄を張るための虚像に過ぎないことがわかります。
前作のジョーカー像に心酔した人は、自分がアーサーと同じ小悪党だと白状しているようなものかも知れません。

小物を描く話としてルックが合っていないところが、前作の面白味のひとつでした。小物なのに、さも大物の苦悩を描くようなルックで撮られています。それが誤解を生みました。
前作は撮影が良すぎました。ただの小物の物語を、撮影で何か特別なものを持っているかのように見せてしまったのです。

その結果、前作は犯罪映画としてのカタルシスを生みました。リアリティがある画面の中で暴力の肯定で終わります。その誤解が現実世界でも、現実の犯罪者やジョーカーの暴力を期待する多くの観客を生みました。

本作はそのアンチテーゼとして、観客に極力カタルシスを与えないような作風になっています。観客が不満を持つのは、当然なのです。

ゴマ

『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』は何を描こうとしているの?

こま

たまたま成功を手にした中身の無い男が凋落する話。古典的な物語の中で、男が悪から自分を取り戻して暴力を否定する姿が、ヒロイックな要素を廃して描かれているよ

映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』のテーマ

本作は作り手側による「前作のアンサー」と評する人が多いようですが、筆者は前作と本作は合わせて1本の作品だと考えます。1本の映画を、2本に分けたのです。「前作と本作は全く違う」と思っている方は大きな勘違いをしています。2本は別の映画ではなく、前作が1本の映画の前半、本作は後半です。

描きたかったのは、たまたま成功を手にした中身の無い男が凋落する話です。特別な物語ではありません。昔からある古典的な物語です。前作が「成功編」、本作が「凋落編」と考えればわかりやすいと思います。
本作をもっと劇的な凋落にすることは出来たはずですが、敢えて観客にカタルシスを与えない作劇に徹しています。

本作は、環境が酷いと思い込んで自分を追い詰めた男が、犯罪を起こし、その罪を認めて死んだという話です。
元々アーサーは信頼できない語り部です。全ては妄想だったかも知れないというのが前作の終わりでした。そのバランスが良かったですし、考察の余地を生んで観客の興味をひきました。
しかし本作では前作の出来事は実は全部事実で、それを否定していくという構造になっています。前作自体を断罪する映画なのです。

なぜそんな映画を作ったのでしょうか。

作り手は、前作で本当はジョーカーではなくアーサーに共鳴して欲しかった。なのに観客はジョーカーに共鳴してしまいました。
前作でアーサーをジョーカーだと観客が思い込んだのは、劇中の群衆と同じです。
本作の裁判でも、ジョーカーかジョーカーでないかが争点で、誰もアーサーそのものに興味がありません。
本作は勘違いされたアーサーの物語を、作り手の元に取り戻す映画になっているのです。

それ故、本作は徹底的に観客にカタルシスを与えないようにしています。ミュージカルシーンもわざと“そこそこ”な感じにしてあります。映画に入り込ませない構造になっているのです。

多くの観客はヴィランをヒーロー視しました。そのように受け止められたことに対する反省です。前作で盛り上がった人々には、まるで冷水をかけられて反省会に出されているような着心地の悪さを感じるでしょう。

従来のジョーカーであれば刑務所で悪さをして、直ぐに脱走するでしょう。でも最後まで暴力を振るいません。彼はジョーカーではなくアーサーだからです。
アーサーはジョーカーに打ち勝つのです。しかしその姿にヒロイックな要素はありません

ラストはアーサーにとって残酷な最期にも見えます。しかしジョーカーではなく、アーサーとして死ぬのです。落ちぶれた情けない男の姿に見えますが、そこには救いがあります

本作でアーサーは、ジョーカーとして何もやっていません。やっていることは全て妄想の中だけです。前作の終わりでジョーカーになって、直ぐに逮捕されて、終わりです。実態も中身もないのです。

前作でも悲惨というほどでもありませんでしたが、本作のアーサーの環境は前作よりもっと辛さはありません。意外にアーサーはぬるま湯にいます。
前作では自分が誰からも認識されていないことに苦しみますが、本作では周囲から注目されています。「あのジョーカーだ」と思われています。恋人は出来るし、看守も収監者も一目置いています。前作で抱えていた一番大きな悩みは、既に解消されているのです。

前作は現代社会における大衆の虚像崇拝を描いているようにも捉えられます。
ネットの世界では多くのインフルエンサーが生まれます。そこでは本来の自分とは違う人間を演じ続ける人もいます。フォロワーはその虚像を崇拝し続けます。
本作ではカリスマを貶めます。そんなものは虚構でしかないというのをまざまざと見せつけるのです。

前作は多くの人が考察しましたが、それを嘲笑うかのような作品にもなっています。本作は「あのジョーカーは何だったのか」という考察に対する作り手からの回答です。

本作はある意味フィクションの否定、映画創作の否定とも受け取れます。
ファンが勘違いした物語を、改めてこういう話でしたと説明する映画です。こんな映画は今まで無かったかも知れません。その点はとても興味深く、面白いなと感じます。

ゴマ

俳優の演技はどうだったの?

こま

ホアキンもガガも良かったよ。流石にどちらも画面の支配力が強いね

キャストと演技

ここ数作ではややぷっくりした体型になっていたホアキン・フェニックスは、またガリガリに痩せ、しっかりアーサーになっていました。骨ばった歪な背中を見ただけでアーサーが帰って来たことを感じ、役作りの凄まじさが伝わりました。
前作同様、ナルシスティックな演技は健在です。素晴らしかったです。

レディ・ガガは、世界的な歌姫であるだけでなく、素晴らしい演者です。本作でもその魅力は発揮されています。本作の演技もとても良かったです。ガガ様力が強く、映るだけで画面を支配します。
当然ミュージカル要員としての期待があってのキャスティングですが、ホアキンとのバランスをとるために、彼女はわざと素人っぽく歌っています。それでも歌の上手さがわかります。流石です。

ゴマ

ガガが演じるハーレイ・クイン(リー)はどうだった?

こま

ガガの演技は良かったけれど、キャラクター造形が薄いのは残念だったな

ハーレイ・クイン問題

本作のリーはハーレイ・クインらしくありません。

ジョーカーが真面目なハーレイ・クインの精神を解放して狂わせるのが、コミックス版の本来のコンセプトでしたが、本作は立場が逆になっています。

自立したハーレイ・クインにはなっていますが、マーゴット・ロビー版とも違って、ヌケがありません。
ガガ様力で保っていますが、リーの中身がほとんど描かれないので人物造形がとても薄っぺらいです。
折角のレディ・ガガの出演ですが、リーは独立した行動は何もなく、引き立て役に終わってしまっています。

ファム・ファタールとしての役割も中途半端です。ファム・ファタールなのであれば、アーサーをもっと狂わせて、破滅させて欲しかったです。

ゴマ

ミュージカルシーンは評判がとても悪いみたいだけど、実際はどうだった?

こま

それなりに楽しかったよ。ミュージカル仕立てでなかったら、暗すぎてもっと退屈だったと思うな

ミュージカル問題

歌詞の日本語字幕付きで、力が入っているのがわかります。

評判が悪い本作のミュージカル要素ですが、個人的には知っている曲も多かったので、寧ろミュージカルシーンは楽しめました。
もし本作にミュージカル仕立てでなかったら、暗すぎてもっと退屈だったのではないかと思います。

「ミュージカルシーン = アーサーの妄想」なので、前作より現実との区分けがわかりやすく、ミュージカルへの入りは馴染みやすく自然でした。

オリジナル曲も数曲あるものの、ほとんどはスタンダードナンバーです。一種のジュークボックスミュージカルです。その時のキャラクターの心情に合わせた歌になっていて、歌詞が感情の吐露になっています。
キャラの心情に合わせた選曲にはなっていますが、物語は推進しません。歌と踊りがドライブしていません。

せっかくのミュージカル仕立てなのに、前作ほどホアキンの身体性が活かされていないのはもったいないと感じました。前作は事あるごとに裸でクネクネしていました。前作の方が踊っていたのでは?と感じました。

わざわざガガ様を呼んできておきながら、歌い上げないでくれと要求するというのは、観客の期待を裏切っているのも同然です。ファンにカタルシスを与えないような作りにするにしても、わざわざ下手に歌わせるというのは作品の質を落とすだけだと思います。
アーサーの妄想なんですから、上手く歌っても良かったんじゃないでしょうか。

ミュージカルをもっと派手にして、主演2人に上手く歌わせていれば、同じストーリーでももっと観客の満足度は上がったのではないかと思います。

妄想の中にオリジナル曲がなく、スタンダードナンバーばかりなのは、アーサーの素質の無さ(妄想の貧困さ)を表しているのだと思います。しかし、どうせ妄想なので、現実の歌と空想の歌の差をもっと大きくして、オリジナル曲を入れ、思い切ってミュージカル映画にした方が映画作品としては面白くなったと思います。

ミュージカル映画『バンド・ワゴン』の「That’s Entertainment」が歌われます。この映画にとっての「エンターテインメント」とは何なのでしょうか。

本作のミュージカル要素は、前作を茶化すための手段だったのかも知れません。

ゴマ

『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』はどこが良かったの?

こま

前作同様、撮影は素晴らしくて、映像が凝っていて美しかったよ

ポジティブ感想

前作は撮影は素晴らしいけれど、ストーリーは凡庸で共感はできない、という感想でした。そんな筆者が観た本作は「思っていたより面白かった」です。酷評するほど酷い作品ではありません。きっと前作が面白かった人ほど落差を大きく感じ、本作をつまらないと思うのではないでしょうか。

わざとつまらないものを作ったというのは間違いだと思います。スタッフもキャストも高いモチベーションで、全力で作っていると感じるからです。監督はこの企画でも、もうちょっとイケると思っていたのではないのでしょうか。

前作同様、映像は凝っていて美しく、撮影はよくできていました。

キャストの演技も素晴らしかったです。

ゲイリーとのシーンは良かったです。グッときました。周りが全員ジョーカーとしてしか見ていない中で、ゲイリーだけがアーサーとして見ていました。ゲイリー役のリー・ギルの演技はとても良かったです。

本作はアーサーが恋する話です。恋愛は妄想込みです。恋をすると、誰だって歌って踊りたい気分になります。ましてやアーサーは歌とダンスに親和性があります。本作がミュージカル仕立てになったのは理解できますし、それなりに楽しめました。

前作に比べて、妄想と現実の区別が画作りやカラーなどで分かりやすくなっていました。

本作は前作の後編なので、前作(=前編)を観ていることが前提にはなっていますが、割と説明的でわかりやすく作られていました。

刑務所で収監者が出廷している裁判を、ライブで収監者たちにテレビで見せるという文化は、面白かったです。

ゴマ

『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』に残念なポイントはあったの?

こま

上映時間が長い割には、話の密度が低く、ドラマがなく、劇的なことは何も起きないし、テンポやバランスも悪いね

ネガティブ感想

ファンが勘違いした映画の答え合わせをして、解答の修正をしてもらう映画。ダメ出し感が半端ないです。
まるで犯人が丸わかりの推理小説の解答パート。満点だったプリントの答え合わせの補習授業、みたいな映画ともいえます。

もし自分たちが作った映画への反省であるなら、観客にお金を出させて見せてるのは疑問です

それはモラル的に正しい映画かも知れませんが、それによってつまらない映画になってしまっています。面白さより正しさを選んだ映画なのです。
ですがこういう映画が観たいか、面白いかということとは別問題です。このような映画を作らせた社会やファンは罪が重いとも感じます。

基本的に裁判所と刑務所の行き帰りの繰り返しなので、テンポやバランスが悪いです。

前作の流れのままなので、新しいことをやっている訳でもなく、物語は特にありません話の密度が低く、ドラマがなく、劇的なことは何も起きません。これだけストーリーが薄いのに、上映時間は長いです。

特に裁判所のパートはつまらなかったです。裁判劇としても、収監ものとしてもいくらでも面白くできそうなものですが、エンタメとして突出したものがありません

前作と同じことをやり、同じことを言っています。同じ物語の後編なので当然です。なので、前作のアンチテーゼにもなっていません。

いつまで経ってもジョーカーとして暴れないので、そこでイライラする観客がいるかも知れません。ハーレイ・クインの存在も中途半端です。

バットマンがいないジョーカーに意味は無いのだということが、よくわかります。

前作から思っていたのですが、あの町は本当にゴッサムシティなのでしょうか。ゴッサム・シティ感がまるでありません。ただのニューヨークにしか見えません。

最初のアニメで全部説明しているように感じましたが、実際にはオープニングアニメと違って二重人格の話ではありませんでした。

予告編にあったシーンが本編にありませんでした。これは時々起こることですが、トレーラーにあったシーンは、観客がかなり期待していたシーンだったと思うので、その点では残念でした。

ファンに殺されて、ジョーカーという狂気が次の輩に「フォリ・ア・ドゥ」(伝播)していくというラスト。
「衝撃のラストにそなえよ」は宣伝文句にするようなものではないと思います。そういうコピーは見たこともない驚きや感動を呼ぶシーンにつける言葉です。本作のラストは成るようにして成った結末であり、作り手が「決着をつけた」のだなという最後です。シーンとしては、何度も観たことがある展開です。
「オチはこれですか」という気持ちになりましたが、前作と本作が1本の映画だと考えれば、納得の最後だったと思います。

前作はやたらにアーサーが裸になっていましたが、本作ではやたらにタバコを吸っています。沢山タバコが出てきますが、いまひとつ面白味のあるシーンはありませんでした。

エンドロールの最後にDCのロゴが出るまで、DC映画なのを忘れていました。

2億ドルともいわれる予算は、どこに消えたのでしょう
裁判所と刑務所(アーカム州立病院)の行き帰りばかりですし、ミュージカルシーンもそれほどお金がかかっているようにも見えません。非常にコスパが悪いと感じます。

ホアキンの出演料は2,000万ドル(約30億円)、ガガ様は1,200万ドル(約18億円)と報じられています。合算しても予算の約16%程度にしかなりません。予算はどこに使ったのでしょうか。不思議です。

前作も本作も、最後に次のジョーカーが生まれるような演出になっていますが、はっきりとは示されません。

タイトルやコミックスのキャラを入れて、初代ジョーカーはこんな感じだったという風な映画にしています。
本作はジョーカーではなく、アーサーという男の物語です。本来はそんな必要のない話です。それなのに原作キャラを入れてくる辺りが小賢しいと感じます。

前作は社会との関わりの話でしたが、本作のアーサーは社会と接していません。設定上、話が展開しようがありません。

トッド監督がやりたかったのは、ジョーカーを描くことではなくて、アーサーという男の物語をスコセッシ風に描くことでした。つまり前作でやりたいことはやりつくしているので、本作ではもうやることがなくなっていたのだと思います。

ゴマ

他にも面白い話はある?

こま

ホアキンが現場で脚本を書き換えたことが、この映画をさらにつまらなくしてしまったんじゃないかな

こぼれ話と考察

ラストで面会に来たのは誰でしょう。アーサーはリーが来たと勘違いしたようでしたが、アーサーを殺すために看守たちが仕掛けたと考えるのが妥当だと思います。刺されても誰も助けに来ないのが、その証拠です。

本作に酷評が寄せられる原因は、カタルシスが無いためかも知れません。
多くのファンは、脱獄して更に犯罪を犯すアーサーを見たかったということなのでしょう。多くの人に悪のカリスマのジョーカーが見たいと思わせるものは何なのでしょう。

ジョーカーはバットマンあっての存在です(ヴィランとヒーロー)。ジョーカーだけではバランスが取れないのです。それが前作が起こした影響であり、残した課題でした。作り手はその課題を清算するために本作を制作したという意味もあるのだと思います。

ホアキンはかなり現場で脚本を書き換えたらしいです。ガガ様の台詞まで変えたといいます。トッド監督はインタビューで「ガガはよく付き合ってくれた」というようなことを語っていたそうです。このホアキンの口出しで、ますます本作がつまらなくなったのではないかと推察します。

リーが本当に妊娠したかは明らかにされていません。彼らの子どもが「ジョーカー」になると予想するファンもいます。しかしリーはアーサーに嘘を吹き込む得体の知れない人物です。妊娠も嘘であった可能性が高いです。

アーサーを起訴しようとする検事はハービー・デントという名前でした。ハービー・デントは、DCコミックスの『バットマン』に登場する「トゥーフェイス」というヴィランです。裁判所の爆破の後、顔を怪我している検事の姿だけがわかりやすく映りますが、これはトゥーフェイスが誕生した瞬間だったというわけです。

アーサーを囲む看守たちが持つ傘がカラフルに変わり、カットが変わるとまたグレーに戻るというシーンがあります。このカラフルな傘は、カトリーヌ・ドヌーヴ主演の傑作ミュージカル『シェルブールの雨傘』(1964年)のオマージュです。

爆破された裁判所から逃げ、ジョーカーのファンと共に車で逃走するアーサー。このとき車の中でかかっていたのがビリー・ジョエルの「マイ・ライフ」という曲。ビリーは「これが俺の人生だから。俺のことは放っておいてくれ」と歌います。アーサーはこの曲を聴いて、逃避を止めて車を降ります。この曲がアーサーの中のジョーカーを止めることになるのです。

オープニングアニメで、壁に貼ってあるポスターは引用曲に由来しています。観直して、調べてみると面白いと思いますよ。

トッド・フィリップス監督の発言

トッド・フィリップス監督は前作の公開時に続編の可能性を否定していましたが、結果的には本作を制作しました。ワーナーから、いくらかけてもいいから好きに作ってくれと言われたのかも知れません。

但し、本作は前作に対するファンの反応を見て作った反省文ではありません。インタビューなどで、前作の制作過程の中頃には続編のことを考えていたことが語られているからです。

トッド監督はインタビューで次のようなことを語っています。

「1作目を撮影している時から、これが成功して次を作れることになったら何ができるだろうか、と半分冗談で話していた。当時インタビューでは言わなかったが、頭の中にはあった。つまり、急に気が変わって続編を作ろうと決めたわけではない

「パンデミックの期間中に、共同脚本家のスコット・シルバーと毎日映画の話題について話し合っていた」

「前作と全く違う作品にしたいが、同じ世界だと感じさせる作品を作る必要があった」

「ホアキンはキャリアで一度も続編に出たことがない。新しい、エキサイティングだと感じてくれる作品にする必要があった」

「新作は前作の“姉妹編”という位置づけになる」

私たちがこの世界で言いたかったことは、もう言い終わったと思う」

これらのインタビューの発言で、本作が作られた経緯とどのような映画にしたかったのかが少しわかります。

ゴマ

映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』のおすすめポイントまとめです

映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の推しポイントまとめ

法廷もの、刑務所もの、ミュージカルの組み合わせで構成されています。

前作と本作を1本の映画として捉えると、作り手の意図がわかりやすいです。1本の映画を2本に分けた、続編ではなく後編といえる作品です。前作が「成功編」、本作が「凋落編」です。そう捉えると、前作が面白くて、本作がそれほどでもないのは当然です。主人公は落ちぶれていくだけですがら。

当然、前作と表現したいことは同じです。同じであれば、わざわざ作る必要は無かったかも知れません。2本に分けないで、1本にまとめれば良かったのではないかとも思います。当然、これで完結です。

作らなくてもよかったものを、映画会社に沢山予算を出すからもう1本作ってくれ、と言われて制作したようにも感じます。

前作と本作を1つの物語と考えると、「中身がない男が、たまたま成功を手にして祭り上げられ、自分は特別だと勘違いするのだが、結局実力が無いので凋落する」話。昔からあるとても古典的な物語です。堕落する男の話として味わい深いです。

新しい物語ではありません。古典的なストーリーを綺麗な画作りで撮った作品です。

映画会社としては商売的に『ジョーカー』というタイトルでなければならなかったのでしょうが、本来は『アーサーの人生』とか『アーサーという男』というタイトルにすべきだったと思います。そうすれば観客に誤解されることは無かったでしょうし、物語の納得度も上がったと思います。

これがトッド監督が描きたかったことであり、作り手からファンへの回答です。監督からのメッセージをしっかり受け取りましょう。

作中でリー(=ファン)はアーサーから去ると描かれています。つまりファンに嫌われるのは織り込み済みなのです。

織り込んでいたとはいえ、こんなに酷評になるとは思ってはいなかったでしょう。監督としては、この趣向がもっといけると思っていたのではないかという気がします。

それは本作の作りでわかります。いい加減に作った作品ではなく、とても力を入れて、本気で作ってあります。キャストの演技も素晴らしかったです。

作り手の勇気ある作品であり、誠実な映画です。暴力を否定したという意味でも、価値がある作品です。

1つのストーリーを2本の映画にしたので、違いを出すアイデアとして、ミュージカル風などのギミックを入れざるを得なかったのだと思います。

カタルシスを与えない作りにしてあるので、面白味に欠けることは理解できますが、映画的なカタルシスと暴力的なカタルシスは分けて考えた方が良かったと思います。下手に歌わせるのだったら、わざわざガガ様を呼んだ意味はありませんから。

作り手が反省するために一本の映画を作ってしまったのであれば、本作を作らせたのはファンです。前作のファンが本作を酷評するなどということは、とんだお門違いですね。

前作を否定する映画なのですから、ちゃぶ台返しの無茶苦茶感を面白がるのが、本作のいい楽しみ方だと思います。

是非、本作をもう一度観て、確かめてくださいね!

いかがだったでしょうか。
ぜひもう一度この映画を観ましょう!
そこにはきっと気付かなかった感覚や楽しさ、新しい発見があると思います。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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